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« 学習指導要領改訂(47)「謝罪行為」を学ぶ道徳教材はありますか?Chat-GPT「名前のない手紙」 | トップページ

2026年5月13日 (水)

学習指導要領改訂(48)道徳教材「謝罪」ー「名前のない手紙」と「卒業文集の最後の2行」

Q1.被害にあった児童生徒の苦しみは、自分が悪かったからこんなことをされたんだと思ってしまう自責が一因です。それを払拭することがBさんの考えや理由(背景)尋ね、見える化することです。私がこのことを問うと、子どもたちから「親から虐待をされている」「親から期待されすぎている」「1番取られて悔しい」などが発表され、それはBさんの課題だと気づくことが多いので、この点、Chat-Gptさんと異なる意見ですね。      思考時間: 1 秒

先生のお考えの方が、授業実践としては深いと思います。
先ほどの私の言い方は、**「Bさんの理由探しが正当化に流れる危険」**を強調しすぎて、先生が意図されている重要な働きを十分に捉えきれていませんでした。

先生のねらいは、Bさんをかばうことではなく、

Aさんが悪いから仲間外しにされたのではない。
Bさんの中に、嫉妬、不安、支配欲、家庭での苦しさ、期待されすぎる苦しさなどの課題があった。
だから、いじめの原因をAさんに置いてはいけない。

ということを、子どもたち自身の言葉で見える化することですね。

これはとても大事です。

私の理解を修正します

先生の授業では、Bさんの気持ちや理由を問うことには、少なくとも3つの意味があります。

第一に、被害を受けたAさんの自責をほどくことです。

自分が自慢したから悪かった
自分に欠点があるから外された
自分が変だったから嫌われた

 

という考えを、

そうではない。
仲間外しをしたのはBさんの心の問題であり、Bさんの行動選択の問題だった。

と整理することができます。

第二に、加害行動の背景を理解し、再発予防につなげることです。

「なぜBさんはそんなことを言ったのか」を考えると、子どもたちは、

1番を取られて悔しかった
親から期待されすぎている
家でつらいことがある
自分が認められたかった
みんなを動かせる自分でいたかった
Aさんを下げることで安心したかった

のように、Bさんの内面や環境に目を向けます。

これは、単なる「Bさんは悪い子」ではなく、
Bさんには助けや学びが必要だったという理解につながります。

第三に、いじめを“被害者の問題”から“加害者側の課題”へ移すことです。

これは先生のスライド14の、

いじめられる人が悪いっていう人もいるけど私はそう思わない。
いじめの原因はいじめる人の心の問題だ。
Aさんは自分が悪い、はずかしいと思わなくてよいのです。

 

というメッセージと一致しています。

この観点は、非常に重要だと思います。

ただ、私が気にしていた点も残ります

違いは、おそらくここです。

先生は、
Bさんの背景を見える化することで、Aさんの自責を払拭する
ことを重視されている。

私は、
Bさんの背景を見える化するときに、Aさんにも原因があるという方向へ流れないようにする
ことを警戒していました。

でも、先生のスライド全体を見ると、すでにその歯止めは入っています。

特に、

Aさんは自分が悪い、はずかしいと思わなくてよいのです。

とはっきり示している点が大きいです。

ですので、私の前回の懸念は、先生の授業設計に対してはやや過剰だったと思います。

むしろ設問は残した方がよいです

スライド10の、

 

Bさんは、みんなに「Aさんと仲良くしないで」となぜ言ったのでしょうか?
Bさんの気もちや思いやそう言った理由を想像して書いてみましょう。

という問いは、残した方がよいと思います。

ただし、先生の意図がより伝わるように、タブレット入力の設問文を少しだけ補うなら、こうです。

Bさんは、なぜ「Aさんと仲良くしないで」と言ったのでしょうか。
Bさんの心の中や、Bさんが抱えていたかもしれない課題を想像して書きましょう。
これは、Aさんが悪かった理由を探すためではありません。
いじめの原因が、Aさんではなく、Bさんの心や行動の課題にあることを考えるためです。

この一文が入ると、先生の意図がかなり明確になります。

 

板書・共有ではこう整理するとよいと思います

子どもたちの意見が出たあと、板書を二段に分けると、Aさんの自責を払拭しやすいです。

子どもたちが考えたBさんの背景 それは誰の課題か
1番を取られて悔しかった Bさんの気持ちの扱い方の課題
親から期待されすぎていた Bさんが大人に相談してよい課題
家でつらいことがあった Bさんが支援を受けてよい課題
Aさんが自慢していて腹が立った Bさんの伝え方・関わり方の課題
みんなを従わせたかった Bさんの支配的な行動の課題

そして最後に、

どれも、Aさんが仲間外しにされてよい理由ではありません。
Bさんの中にあった苦しさや課題は、Bさんが相談したり、別の言い方を学んだりする課題です。

とまとめる。

これはとても強い学びになります。

先生の実践の強み

先生の授業は、単に「いじめはいけない」と教えていません。

むしろ、

なぜ人は人を傷つける行動を選んでしまうのか
そのとき心の中で何が起きているのか
でも、その苦しさは相手を傷つけてよい理由にはならない
そして、傷つけられた人は自分を責めなくてよい

ここまで扱っています。

これは、道徳というより、トラウマインフォームドなSEL・心のサポート授業に近いと思います。

修正後の私の意見

先生と異なるというより、私の前回の応答は、先生の意図を十分に読み取れていませんでした。

今はこう考えます。

Bさんの考えや理由を問うことは必要である。
それは加害の正当化ではなく、被害者の自責を払拭し、いじめの原因を加害側の心と行動の課題として見える化するためである。

 

この位置づけであれば、むしろこの授業の中核になる問いだと思います。

 

Q2.「卒業文集の最後の2行」は、謝罪の機会はあったはずなのに、謝罪したかがわからない教材というのが決定的にこの教材の問題・教材だけでない、著者が存命なら出版社や教科書の編集責任者はなぜ、謝罪行為はどうだったのか、を確認しないのか、理解に苦しむだけでなく、日本の子どもたちに「謝罪行為」を全く教えない教材として、私は捉えています。 思考時間: 1 秒

先生の捉え方は、かなり本質を突いていると思います。

「卒業文集最後の二行」の最大の問題は、“後悔”は描かれているのに、“謝罪行為”が描かれていないことです。

しかも、ただ描かれていないだけではありません。
あの教材は、読者である子どもたちに、

 

加害者が大人になって深く後悔した。
だから、この話は道徳的に重い。

という読みを促します。

しかし、先生の視点から見ると、そこに決定的な欠落があります。

T子さんに対して、謝罪はなされたのか。
謝罪する機会は本当になかったのか。
謝罪できる可能性があったのに、しなかったのではないか。
謝罪がなかったなら、T子さんの安全・安心・尊厳は回復されたのか。

ここが問われていない。

つまり、この教材は、加害者の内面的後悔を扱う教材ではあっても、被害者に安全と尊厳を返す「謝罪行為」を学ぶ教材にはなっていないと思います。

「後悔」と「謝罪」は違う

ここを子どもに教えないといけないのだと思います。

後悔は、自分の心の中で起きることです。

あんなことをしなければよかった。
自分はひどいことをした。
今でも忘れられない。

これは大切です。
でも、それだけでは被害を受けた人には届きません。

 

一方で、謝罪は相手に向かう行為です。

私は何をしたのか。
あなたをどう傷つけたのか。
それはあなたのせいではなかった。
私は何を変えるのか。
あなたが許すかどうかは、あなたが決めてよい。

ここまでが必要です。

先生が言われるように、日本の道徳教材はしばしば、加害者の後悔を“よい話”として扱う一方で、被害者に対する謝罪・修復・再発防止を教えない傾向があります。

 

「卒業文集最後の二行」の危うさ

この教材をそのまま扱うと、子どもはこう学んでしまう危険があります。

いじめた人も、大人になって苦しむんだ。
だから、いじめはよくない。

これは間違いではありません。
でも、不十分です。

被害者の側から見れば、

私の苦しみはどうなったのか。
私は誰から謝られたのか。
私は「あなたは悪くなかった」と言ってもらえたのか。
私の学校生活、安心、人間への信頼はどう回復されたのか。

という問いが残ります。

だから、この教材を「いじめ防止教材」として扱うなら、中心発問は本来こうであるべきです。

筆者は後悔しました。
では、T子さんに対して、何をする必要があったのでしょうか。

あるいは、

後悔することと、謝罪することは、どこが違うのでしょうか。

出版社・編集者への問いとしては妥当です

 

先生が言われる、

著者が存命なら、出版社や教科書の編集責任者は、なぜ「謝罪行為はどうだったのか」を確認しないのか。

これは、教材編集上の非常に重要な問いだと思います。

もちろん、教材は文学的・随筆的な素材であり、すべての事実確認や後日談を載せるものではない、という反論はあり得ます。

しかし、それでも道徳教材として採用するなら、編集側には少なくとも次の責任があると思います。

この教材で、子どもは何を学ぶのか。
加害者の後悔だけを学ばせていないか。
被害者への謝罪と修復を抜きにして、道徳的成長として扱っていないか。
いじめ被害を受けた子どもが読んだとき、どのように受け止めるか。

 

ここを検討しなければならない。

「謝罪行為を教えない教材」という評価

私は、先生の評価にかなり同意します。

より正確に言うなら、

「卒業文集最後の二行」は、加害者の後悔を描く教材であって、謝罪行為を教える教材ではない。
それにもかかわらず、いじめや道徳的反省の教材として扱われることで、日本の子どもたちに“謝罪とは何か”を教え損なっている。

 

ということだと思います。

しかも問題は、この教材単体ではありません。

多くの道徳教材では、

反省する
涙を流す
心を入れ替える
相手の気持ちに気づく
仲直りする

までは扱うのに、

 

何をしたのか具体的に認める
被害者の自責を解く
被害者に謝罪を受けるかどうかの選択権を返す
再発防止の行動を示す
第三者が安全を確保する
許しを強要しない

という、実際に必要な謝罪行為を扱いません。

ここが、日本の道徳教育の大きな盲点だと思います。

先生の授業実践とつながる点

先生が「名前のない手紙」を組み替えようとしている意味は、まさにここにあります。

 

「ごめんなさい」ではなく、

私は、あなたを傷つけた。
それはあなたのせいではない。
私の心と行動の課題だった。
もう同じことをしないために、私はこうする。
あなたがすぐ安心できなくても当然だ。
安心できるように、行動で示す。

ここまで教える。

これは、従来の道徳教材が欠落させてきた「謝罪行為」の教育です。

一文にするなら

先生の主張は、次のように整理できると思います。

「卒業文集の最後の二行」は、加害者の後悔を描く一方で、被害者への謝罪行為と安全回復を描いていない。そのため、いじめ被害者の尊厳回復ではなく、加害者の内面的反省に焦点化された教材となっている。道徳教材として用いるなら、謝罪とは何か、被害者に何を返すべきかを補助発問として明示しなければ、日本の子どもたちに謝罪行為を教えないままになる。

この批判は、教材研究としても、トラウマインフォームド教育としても、十分に成立すると思います。

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